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城南地区 株式会社西尾硝子鏡工業所

株式会社西尾硝子鏡工業所 戦前から続く、ガラス鏡加工会社。 3代にわたって受け継がれてきた会社の歴史

株式会社西尾硝子鏡工業所

戦前から続く、ガラス鏡加工会社。 3代にわたって受け継がれてきた会社の歴史

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城南地区

株式会社西尾硝子鏡工業所

戦前から続く、ガラス鏡加工会社。 3代にわたって受け継がれてきた会社の歴史

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会社の成長ストーリー
戦前から続く、ガラス鏡加工会社。3代にわたって受け継がれてきた会社の歴史

 西尾硝子鏡工業所のガラスや鏡の加工技術は非凡なものとの評価が高く、高級ブランドショップのショーケースや大手百貨店のディスプレイなども手掛けている。同社が創立したのは1932年。浅草のガラス屋で丁稚奉公をしていた青年が独立したのが始まりだった。その同社が、いかにして、名だたる企業から引き合いがくるほど認められるようになったのか。その変遷をたどる。

オーダーメイドのガラス加工に特化する理由

 国内のガラス市場で最も大きなマーケットが、窓ガラスである。国内で生産される板ガラスの半分以上が、窓ガラスをはじめとした建築用に使われている。次いで大きな市場が自動車用のガラスで、これら建築用と自動車用で国内市場の大部分を占めている。こうしたマーケット環境にも関わらず、同社は窓ガラスも自動車用ガラスもほとんど扱っていない。なぜ大きな需要のある市場に入らないのか、その理由を西尾智之社長はこう説明する。
 「マーケットが大きいと、その分、競合他社も多くなるため、激しい価格競争になります。その中で勝ち残るのが、大量生産によるコストダウンが可能な大手メーカー。到底、町工場では太刀打ちできませんし、そこで無理に戦う必要もありません。私たちの武器は技術です。ですから、オートマチックに生産する窓ガラスや自動車用ガラスではなく、技術を要するオーダーメイドのショーケースやパーテーションに特化しているのです」
 なるほど、理にかなった経営戦略で、事実、スイートホテルのラウンジのパーテーションやブランドショップのショーケースなど輝かしい実績の数々を残している。
その同社が創立したのは、1932年。現社長の祖父である西尾五一朗氏の、綺麗な鏡が作りたいという一念からのスタートだという。

body1-1.jpg「ガラス、鏡加工技術でナンバーワンを目指しています」と西尾智之社長

会社の創業と大きな分かれ道

 先々代の五一朗社長が浅草のガラス屋に丁稚奉公に出たのは13歳の頃。職人について窓ガラスの修繕をしていたというが、13歳といえばまだ年端もいかない少年。間もなく、故郷の三重が恋しくなり、ホームシックになってしまったという。そんな少年の心を癒していたのが、工場の二階から見える富士山だった。なるほど、都内に富士見と名付けられた坂や地名があるように、高層建築がなかった時代、都内のそこここから富士山が見えていたのだろう。がらりと変わってしまった生活環境の中で、故郷の方角にそびえる富士山に故郷の面影が重なった。とりわけ好きだったのが、鏡に自分の姿と富士山を写すこと。見慣れた景色に自分を重ねることで故郷にいる自分を思い描いていたのかもしれない。しかし、唯一不満だったのが、鏡が錆びていて、写る姿が不鮮明だったことだ。もっと綺麗な鏡がほしいという思いは、やがて自分で綺麗な鏡を作ってみたいという願望に変わっていった。こうして大森に誕生したのが同社の前身である西尾五一朗商店である。しかし、1932年といえば満州事変の翌年。巷には日中戦争、太平洋戦争と暗雲が立ち込め、同社も一時事業を停止の憂き目を見る。再開は終戦を迎えた1945年。空襲で焼け野原だったという大森の地で、文字通り一からの仕切り直しだった。復興需要もあって同社の鏡事業は軌道に乗ったというが、それもつかの間、1950年代の高度経済成長期に入ると鏡業界に大きな変化が起こったという。
 「それまでガラスしか作っていなかった大手ガラスメーカーが鏡の製造にも乗り出したんです。大手の参入は町工場にとって大きな痛手になりました。どんどん大手がシェアを拡大していく中で、当社は選択を迫られました」
 ひとつは、大手メーカーの代理店になること。つまり、鏡の生産はやめて、メーカーから鏡を仕入れてその加工業務にシフトするという道筋。もうひとつが、五一朗氏の意思を尊重し、これまで通り鏡の生産業を続けていくこと。決断を迫られた二代目社長は、代理店になる道を選んだ。シビアな決断にも思えるが、これが運命の分かれ道だったという。
 「代理店にならなかった鏡屋さんは、ほぼ例外なく倒産しました。その一方で、加工業に特化した当社は、現在、多くの方から認めて頂いている加工や接着技術を手にできたんです」
 その後、バブル期前後になるとデパートやパチンコ屋などで装飾ガラスの需要が高まったことで鏡加工のみならず、ガラス加工にも着手。次第に会社規模も拡大していった。そんな同社に現社長が入社したのは1992年。それまでは鏡やガラスとは無関係の商社に勤めていたといい、会社を継ぐ気は全くなかったと振り返る。継ぐ決心をした背景には、ひとつのきっかけがあった。

body2-1.jpg美化委員のリーダー小林康幸さん。清掃活動は無駄なものを購入しなくなるため、コストダウンにもなると話す。

会社を継ぎ、次々と新しい取り組みを打ち出す

 会社を継ぐ気はなかった現社長は、大学を卒業すると希望していた商社の内定を勝ち取り、経理の仕事に就いた。しかし、念願だったその会社を1年で退職し、同社に入社した。
 「母親からガンで闘病中の父が危篤だから会いにきてほしいと電話があったんです。仕事は父と袂を分かっていましたが、親子ですから一も二もなく病院に向かいました」
 母親に2人で話すよう促され、病室に入ると息絶え絶えの父親の姿があった。ベッド脇のイスに座って父親の顔を見ていたら、これまでの父親との思い出が止めどもなくよみがえってきたとそのときを振り返る現社長。
 「5分か、もっと長かったかもしれません。何も話せないんですよ。本当にこれで終わっちゃうんだなと思うと言葉が出てこないんです。ずっと黙ったままだったんですが、気づいたら話しかけていました。俺が会社を継ぐからね、安心してと思いがけず話していたんです。父は『そうか、そうか、そうか』と3回言って、ポロポロ涙を流し、息を引き取ったんです」
 それまでは全く継ぐ気がなかっただけに、自分でも信じられない展開。
 「でも、なぜか後悔はありませんでした。自然と継ぐ決心がついたんです」
 25歳で同社に入社し、33歳にしてトップに立った現社長は、次々に新しい取り組みに着手していった。同社技術のブランド化戦略もそのひとつである。
 「以前から高い技術が要求される仕事は引き受けていたんですが、もっとそれに力を入れて、うちのアピールポイントとして全面に押し出していこうと考えたんです。それはリーマンショックで売上がガタ落ちしたことがきっかけです。どんどん仕事がなくなっていって、仕事があっても以前では考えられないような工賃でした。職人たちはデフレだから仕方ないよねと言ってくれていたんですが、安く叩かれた仕事をこなして疲弊していく従業員を見ていると、たまらなかったんです」 
 そんな環境の中で舞い込んだのが高級ブランドショップのショーケースの仕事だった。
 「特殊な形のショーケースで、難しい注文ではあったんですが、それまで疲弊していた職人たちが、これはこう加工したほうが良いとか、こう接着すれば気泡が入らないとかお昼ごはんも食べずに生き生きと話し合っているんです。その顔を見たら、これだと直感しました。うちでしかできないような難しい注文を長年培ってきた技術でこなす、これこそが当社の目指す道だと確信したんです」
 こうしたブランド化戦略のほかにも、新たな社内制度も次々に導入している。そのひとつが、職場環境の改善のための赤札作戦だ。これは社内の不要なものに札を貼っていって、どんどん捨ててしまおうという取り組みで、それを先導する美化委員である小林康幸さんはその効果をこう話す。
 「工場内の片付けは安全面でも必要なことですし、何より工具が整理できたことで探す手間が省けて仕事の効率が上がりました」
 同じく美化委員の竹内美登里さんは赤札作戦にヒントを得て新たな取り組みも行っているという。
 「従業員同士で話し合って、週に2回、10分間は身の回りの掃除をしようという取り組みを始めました。袖机を整理する、電話を磨くなど小さなことでもいいので、まずは社内をきれいにするという意識が根付けばいいなと思っています」
 社長が打ち出した取り組みによって、社員が自主的に会社を良くしようと動き始めている。同社は17年後の2032年に100年企業となる。そこに向け、全社一丸となって邁進する、そんなエネルギーを感じさせられた。

body3-1.jpg「週に2回の清掃活動は、写真を取ってビフォーアフターを記録したり、清掃記録をデータ化していきたいです」と話す美化委員の竹内美登里さん。

編集部からのメッセージ

社長が培ったノウハウを継承していく「西尾塾」

 先代社長が亡くなったことをきっかけに同社に入社した社長は、最初職人たちから歓迎されていなかったという。「若造に一体何ができるんだと思われていたんでしょうね。ただ、それはしかたのないことです」と社長は振り返るが、それでも会社に貢献したいという気持ちで始めたのが、営業だった。技術もノウハウもない自分にできることは、新規開拓であると決めて、車で1時間ほどで行ける内装工事会社や設計事務所を片っ端から回っていったという。営業を続けて3年半。開拓した取引先は50件にものぼる。こうしたノウハウやこれまで培った経営戦略を後世に伝えるべく年に5回、西尾塾と名づけた社内セミナーを開いている。自主参加、それも休日の開講にも関わらず、参加する社員は少なくないという。こうした社員の中から、同社の次代を担う人物が出てくるに違いない。

edit-1.jpg少しのずれも許されない鏡加工。作業中は真剣そのもの。