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城東地区 株式会社エー・アイ・エス

株式会社エー・アイ・エス 精密板金加工を営む町工場が歩んだ、再建への軌跡

株式会社エー・アイ・エス

精密板金加工を営む町工場が歩んだ、再建への軌跡

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城東地区

株式会社エー・アイ・エス

精密板金加工を営む町工場が歩んだ、再建への軌跡

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会社再建ストーリー
精密板金加工を営む町工場が歩んだ、再建への軌跡

 株式会社エー・アイ・エスが手掛けるのは、鉄やアルミ、ステンレスといった板状の金属を曲げたり溶接したりして製品を作り上げる板金加工。従業員13名が切り盛りする町工場で生み出される製品の数々は、多くの企業から厚い信頼を寄せられている。そんな同社だが、かつて倒産の危機に陥ったこともあるという。会社再建の原動力は、従業員、協力工場、そして地域の人たちの支えだったと、石岡和紘社長は言い切る。

思い出のつまった工場を存続させたい

 一口に板金加工といっても、同社が手掛ける製品は実に様々。例えば、ゲーム機の筐体や給湯器の配管カバー、特殊なところだと空港の管制室にある管制卓の骨格など、挙げればきりがないほどだ。そんな同社が創業したのは2000年だが、その前身ともいえるのが株式会社天野電機製作所という板金加工の会社で、石岡和紘社長の祖父が江戸川区平井で1940年に興した会社だ。石岡社長もこの天野電機製作所で生産管理や営業などに従事していた。
 「主にコンピュータ関連部品の板金加工を手掛けており、私の父を含めて腕の良い職人が揃っていたので、手前味噌ですが多くの企業から引き合いがありました。一時期は130名ほどの大所帯にもなったんですよ」
 と石岡社長は振り返る。ところが、その繁盛していた工場が危機にさらされた。1990年代初頭、バブル崩壊のあおりを受けて、それまで来ていた仕事が一気に激減してしまったのだ。
 「失われた10年といわれている通り、それから一向に状況が好転しませんでした。そして、2000年に埼玉にあるもうひとつの工場に生産拠点を集約して平井工場を閉鎖するという話が浮上したんです」
 子どもの頃から出入りしていた工場だけに大いに頭を悩ましたと石岡社長は振り返る。それは工場長を勤めていた石岡社長の父親も同じだった。
 「そこで父が代表取締役になり、天野電機製作所から工場と設備を借り受けて独立する形でスタートしたのが株式会社エー・アイ・エスなんです。新しい会社を立ち上げたところですぐに状況が好転するとは思っていませんでした。それでも、生まれ育った江戸川区で何とかものづくりを続けたいという一心だったんです」
 それまで専業主婦をしていたという石岡社長の母親を含めて5人での再出発だった。

body1-1.jpg「再建できたのは従業員や周囲の人の支えがあったからなんです」と話す石岡和紘社長

再建への軌跡

 石岡社長はそれまで担当していたクライアントのフォローがあるため、歯痒い思いもあったというが、しばらくは天野電機製作所の埼玉工場で働いていた。エー・アイ・エスに戻ってきたのは立ち上げから2年後のことだった。
 「すぐに営業に取り掛かりました。仕事がなければ取りに行くしかありません」
 古くから付き合いのあるクライアントをしらみ潰しに周り、断られても笑顔を作り、平身低頭で駆けまわった。従業員数が少ないため、営業活動の傍ら生産管理や配送の仕事もこなした。依頼があればたとえ一品物でも断らずに、感謝の念を込めて加工に打ち込んだ。そうした愚直なまでの努力が実を結んだのは3年後のことだった。
 「今でも覚えていますが、2005年の7月にそれまでの状況が嘘のように仕事が舞い込んできたんです。実はその直前には税理士の方から『そろそろ潮時ですね』といわば最終勧告を言われていたような状態でした。注文、一つひとつのロットは決して大きくありませんが、案件の数がとにかく多くて、従業員総出で作業に取り掛かったんです」
 多くの案件が入ってきた理由を石岡社長はこう話す。
 「天野電機製作所時代からの顧客が仕事を出してくれたり、弊社の工作機械を納品してくれている業者の方が、『エー・アイ・エスさんは潰せないよ』と色んな所に声を掛けて、板金加工の仕事を紹介してくれたんです。それに、資金繰りが厳しいときは、どこに行っても融資を断られたのに、昔から付き合いのある江戸川区の信金の支店長が、エー・アイ・エスさんのためならと融資をしてくださったこともありました。ですから、ひとえに周りの方々に私たちは助けられたんです」
 もちろん、それもこれも石岡社長の必死の営業活動があってのこと。しかし、それを決して口にせずに周囲の人に助けられたと石岡社長は笑顔で話す。そうした姿勢こそが周囲の人々を動かした所以といえよう。

body2-1.jpg曲げや溶接など、工場の職人にはそれぞれ得意な加工があるという

多くの社員が社長を慕う

 まさに不死鳥のように甦った同社ではあったが、2012年に思わぬハプニングに見舞われた。工場の貸し手である天野電機製作所から、工場を買い上げるか、他のところに移るか選択してほしいと言ってきたのである。天野電機製作所も経営状態が思わしくなかったから、仕方なかったのだろうと石岡社長は話すが、もともとエー・アイ・エスは工場を存続させるために創立した会社。大いに逡巡したと振り返る。
 「当時、工場を買い上げる資金はありませんでしたから出て行くしかなかったのですが、子どもの頃から慣れ親しんできた工場を失う喪失感は大きかったですね」
 移転せざるを得なくなった石岡社長が何より気がかりだったのが、従業員がついてきてくれるか否かだった。先の工場移転の話が浮上した際には、多くの従業員が離散していたため、それがトラウマのようになっていたのだ。 
 「案ずるより産むが易しの諺どおりで、蓋を開けてみれば従業員全員がついて来てくれました。もっとも、新しい工場が同じ江戸川区内というのも大きかったのでしょうね。移転先探しに奔走してくれた町内会の人にはいくら感謝しても感謝しきれません。もうひとつ嬉しかったのが、従業員が休日返上で掃除や新工場の塗装もしてくれたことです。つくづく、私は人に恵まれていると実感させられました」
 そんな石岡社長を慕う従業員は多い。入社5年目の主に曲げ加工を務める安田翔さんもそのひとりだ。
 「従業員が頑張って売上が上がれば、その分給料面に反映させてくれるなど、働き手のことを考えてくれていのは嬉しいですし、頭も下がります。それに社長の人柄の良さが社員にも伝わって、職場の雰囲気は良くて、人間関係で悩んだことは一回もないんですよ」
 同様に「社員のことを考えてくれている社長」と話すのは入社1年目ながら、事務と製品検査の仕事を兼任する正木美帆さんだ。
 「仕事が立て込んでいて、余裕がなくなってくると、『大丈夫?』と優しく声をかけてくれるんですよね。そんな一言でモチベーションが上がるんですよね。また、従業員全員の誕生日を覚えていてくれてお祝いしてくれるんです。自分がお祝いされた時はちょっと照れましたが、この会社だったらずっと働いていけると思えました」
 地域や従業員のためにも会社を発展させていきたいと語る石岡社長。古き良き町工場は今後も着実に歴史を刻んでいくに違いない。

body3-1.jpg曲げ加工が得意な安田翔さん。他の仕事も覚えて周囲をサポートしていきたいと話す

編集部からのメッセージ

つながる町工場プロジェクト

 同社は地域の連携を強固にするため「つながる町工場プロジェクト」に参加している。これは同じ板金加工を営む町工場が交流を図ることで技術の向上やものづくりの継承を行っていこうという試み。他社との合同研修もあり、自分の技術レベルを知り、向上心を育む格好の場になっているという。「社長同士の繋がりはあっても、他社の従業員との交流はこれまでほとんどありませんでした。こうした出会いを通じて、日々の業務やものづくりの励みにしてほしいんです」と石岡社長は話す。

edit-1.jpg事務作業の傍ら、製品検査もこなす正木美帆さん
  • 社名:株式会社エー・アイ・エス
  • 設立年・創業年:設立年 2000年
  • 資本金:1,000万円
  • 代表者名:代表取締役 石岡和紘
  • 従業員数:15名(内、女性従業員数6名)
  • 所在地:132-0015 東京都江戸川区西瑞江4-15-15
  • TEL:03-5879-9802
  • URL:http://www.seimitsubankin.com